Lévy-Dhurmer |
中世の昔、交易の要衝として栄え、眩い輝きを放った街ブリュージュ。次第に歴史の中で忘れ去られ、死んだ街となる。 沈黙と憂愁にとざされ、教会の鐘の音が悲しみの霧となって降りそそぐ灰色の都ブリュージュ。愛する妻を失って悲嘆に沈み、妻との思い出の場所であるブリュージュに滞在するユーグ・ヴィアーヌ。彼がそこで出会ったのは、亡き妻に瓜二つの女ジャーヌだった。 『死都ブリュージュ』は、世紀末の退廃の夢のうちに生きたベルギーの詩人で作家のジョルジュ・ローデンバック(Georges Rodenbach, 1855-1898)が、メランコリックに描いた夢想と死の世界の物語。 |
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ローデンバックの肖像
Portrait of Georges Rodenbach, 1895.
日が傾きかけていた。窓という窓に紗のカーテンがかかり、しんと静まりかえった広い家の廊下に薄闇が迫っていた。 ユーグ・ヴィアーヌは、外出する所だった。日の暮れ方になると、そうするのが毎日のならわしだった。仕事も持たず、ひとり暮らしのユーグは、日がな一日、自分の部屋にしている、ただっぴろい二階の一室で過ごした。 ほんのわずか読書をした。何冊かの雑誌やむかしの本を読んだ。煙草をむやみに喫った。あとは思い出の中に溺れ、灰色に曇った空の下、ひらいた窓辺でぼんやり夢を見て過した。 こんな生活が、もう5年もつづいていた。妻が死んで、直ぐ、ブリュージュに来て、ここに居を定めてから、ああ、もう五年になるのだ。 |
若い妻は死んでいった。 死んだ人の体から、ユーグは、その髪の一束を切り取った。死はすべてを破壊するが、髪の毛だけは手をつけずに残す。眼も、唇も、すべては光を失って、崩れ落ちる。髪の毛の中にだけ、人は行き続けるのだ。 |
生気のない水辺と通りのものいわぬ大気の中にいると、ユーグはあまり辛いと思うこともなく、ますますゆったりと死んだ妻のことを思った。よりはっきり彼女が見え、よりはっきりしゃべるのが聞こえ、運河に沿って道すがらオフィーリアのようなその顔を見付け、遠くのくぐもったカリオンの歌声の中にその声を聞いたのだった。 街もまた、かつては愛されもし美しかったが、同じようにその思い出を形作ってくれた。ブルージュは彼の死んだ妻だった。そして死んだ妻はブルージュだった。全てが同じ運命にひとつとなっていた。それが死都ブルージュ、街そのものが石造りの河岸に埋葬され、運河の冷たい動脈が走っていた。そこには海の大きな鼓動も届いてはいなかった。 |
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ユーグは、ポプラ並木の物悲しい町外れの方へと向かった。どこまで行っても、頭上の冷たいしずくに加えて、町の教会の鐘のちりちりとなるいやな音が降りかかってくるのだった。 |
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高い塔の間から一つの黒い影がすうっと、ユーグの魂に伸びてくるような気がした。古い壁の向こうから何か語りかけるものがあった。 |
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ささやくような声が、水の面からもきこえてきた。──水は、ユーグを迎えにきたようだった。あのオフィーリアを迎えにきたように。 |
──突然、ひとりの若い女がこちらに向かってくるのが見え、何かしら心がわきたつのを覚えたのだった。 ──何もかもが戻ってきた。再現した。生きていたのだ。 夢遊病者さながらに、ユーグはただ、追い続けた。 ああ、あの女はなんと死んだ妻に似ていたことか。 |
ユーグは亡き妻の霊につきまとわれた。妻の霊が戻ってきて、霧の中に屍衣をまとった姿で、浮き漂っていた。 すぐかたわらrの運河では白鳥たちが難渋していた。何百年、何世紀とここに住む白鳥たちだった。ブリュージュの町は。この白鳥たちを永久に養育する定めを追わされていた。白鳥の紋章だったさる貴族に不当な死刑の判決を下したかどで、つぐないの養育をしなければならないのだった。 |
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ふだんはおだやかで、白く清らかな白鳥たちだのに、何かにおびえて騒ぎはじめた。真ん中にいた一羽が、ぱたぱたと羽で水を打ち、その羽を支えにして水の上に立ち上がった。 その鳥は苦しんでいるふうに見えた。時々、鳴き声を上げた。それから、ぱっと飛び立ち、遠くに去って行くにつれて、鳴き声もしずまった。その声は傷ついていて、人間の声かとも聞き違えるほどだった。ちゃんと拍子のついた本当のうただった・・・ そうだった。白鳥はうたったのだ。すると間もなく死ぬ白鳥なのだ。でなければ、空中に死の匂いを感じとったのだ。 |
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ジャーヌはユーグの家に行ってみたいと思いついた。ロゼール河岸通りの、ただっつ広くて古風なあの家へ。見た目にも豪壮で、レースのカーテンが人目をさえぎり、霧氷のように窓ガラスにへばりついて、内部のなにものも、うかがい見ることはできなかった。 ジャーヌは男の家へ入り込み、その見栄えから男の資産のおおよそを見定め、心の中で財産目録を作り上げ、その上で自分の決断を下そうともくろんでいた。 |
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いい機会がめぐってきた。時は五月だった。次の月曜日には、キリストの聖血の行列が行われるのだった。数世紀来の年中行事で、ローマの兵士に槍で刺されたキリストの脇腹の傷から流れ出た血の一滴を保存する聖遺物匣が外に持ち出されるのだった。 行列は、ロゼール河岸通りの、ユーグの家の窓の下を通る予定だった。ジャーヌは、この行列を一度も見たことがないのd、ぜひ見たいとの気持ちをあらわした。 |
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ジャーヌは冷たいむくろとなり、死んだ妻は、さらに死んでしまった… ふたりの女は、こうして一体とされ、ひとりの女となった。生きていたとき、あれほど似ていたふたりは、死んで、同じ色蒼ざめた存在となり果てたとき、いっそう似たものとなり、もはや区別もつかぬほどだった。 |
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沈黙の中に、鐘の音が響いてきた。鐘という鐘が、いちどきに鳴り出して、聖血の行列がその礼拝堂に帰りついたのを告げていた。これで終わったのだ、美しい行列も…存在していたすべてのもの──生命に似たもの、暁のよみがえりも。通りという通りはふたたびがらんと空しくなった。町もひとりぼっちの孤独な姿にかえろうとしていた。 |
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ユーグはただ切りもなく、つぶやいているばかりだった。 「死んだ…死んでしまった…死んでしまった町ブリュージュ…」 |
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